実家が売られるとき、子供部屋をどうするか
実家を出てもう何年も経つのに、あの部屋はほとんどそのままだった。ポスターも、賞状やトロフィーの棚も、十七歳のころは大事だと思っていたものが詰まった引き出しも。誰かが意図して残していたわけではなく、ただ片づける理由が一度もなかっただけだ。それが、親から「家を売ることにした」と聞いた瞬間に変わる。何年も先延ばしにできていた問題が、一つの週末に――しかも実家全体の片づけを手伝っているその同じ週末に――一気に押し寄せてくる。
部屋ひとつは、モノひと山とは違う
普段の片づけで扱うのは、たいてい知らないうちに積み上がったモノだ。誰もエコバッグを四十枚集めようと思っていたわけではなく、気づいたらそうなっていた、という類のものだ。子供部屋はそれとは違う。誰かが意図して残してきた場所であることが多い。親がそのままにしておきたかったのかもしれないし、片づけるという決断を最初に下したくなかっただけかもしれない。つまりここで整理するのはモノだけではなく、場所そのものだ。あの窓、何度も眺めた天井、机がいつも置かれていた壁のあの位置。部屋そのものがなくなることに本当に寂しさを感じながら、中にあるモノの大半には特に未練がない――そういうことは十分にありうる。この二つはまったく別の感情で、それを一つにまとめてしまうことが、多くの人を部屋の入り口で立ち尽くさせる原因になる。
「とりあえず全部持ち帰る」が失敗する理由
締め切りに追われているとき、いちばん楽に感じる選択は、たいていいちばん役に立たない選択でもある。すべての箱にガムテープを貼り、車に積み込んで、あとで考える。だが「あとで」はめったに来ない。部屋の問題は解決したのではなく、場所を変えただけだ。開けられていない箱が、今度は自分の家のクローゼットや車庫に積まれることになる。同じ問題が、より狭い空間で、しかも「実家が売られる」という理由がもう存在しないまま残る。決断を先延ばしにしても、決断自体が楽になるわけではない。モノと一緒に、そのまま引っ越しただけだ。
その場で一回で決めず、二段階に分ける
一段階目は、部屋の中でその場でやる。これは決断ではなく仕分けだ。すばやく三つに分ける。明らかに処分か寄付でいいもの、はっきり欲しいとわかっているもの、そして本当に迷うもの。手紙が入った靴箱の判断に手間取って、期限切れの教科書の棚という簡単な判断まで止めてしまわないように、手を止めずに進む。二段階目は、後で、部屋を離れてから行う。触るのは「迷った」山だけでいい。その山を、中身がわかるようにラベルを貼った一つの箱にまとめて持ち帰り、「そのうち」ではなく具体的な週末を一つ決めて、その日に開けると決める。先送りしていいと決められた山は、その場では通り過ぎることができて、それが原因で部屋全体の片づけが止まることもない。
「残したい」と「覚えていたい」を分ける質問
壁や棚にあるものの多くについて、本当に問うべきは「これが欲しいか」ではなく「このモノ自体が欲しいのか、それともこれが起きたという事実が欲しいのか」だ。もう十五年もやっていない部活のトロフィーが欲しいのは、たいていそのトロフィー自体のためではなく、人生のある時期が確かにあったという証拠が欲しいからだ。その棚をそのまま写真に撮る、壁いっぱいのポスターをそのまま撮っておく――それだけで、新しい家の収納箱にトロフィーそのものを詰め込むのとほとんど同じ役割を果たすことが多く、しかも場所をまったく取らない。すべてがそうだとは言わないが、大半はそうだ。モノを見て「このモノにしかできないことなのか」を、ひとつずつ問う価値がある。
本当に持ち帰る価値があるもの
車と新しい家のスペースを割く価値があるものは、実はそう多くない。誰かの手書きの文字が残っているもの――これは本当に代わりがきかない。あとで必要になる書類――出生証明書や、親がずっと保管してくれていた古い通知表など。そして、一枚の写真では代わりがきかないほど、一つの具体的な記憶と結びついた、ごく少数のモノ――漠然とした「子供のころ」ではなく、はっきりと一つの出来事に結びついたモノだ。多くの人が意外と忘れているテストがある。もしそれを今の家に送るのにお金がかかるとしたら、それでも払うか。部屋に立って、階下で親が待っている、その瞬間には「絶対に必要」と感じるモノの多くは、その場のプレッシャーから一週間離れて考えると、このテストに通らない。
その場で本当に決められないとき
頭がきちんと働かないこともある。それは自然なことで、だからこそ「迷った」箱がある。大事なのは、その箱がそのまま自分の家のクローゼットの奥に消えて、あの部屋で起きたことをもう一度繰り返さないようにすることだ。「子供のころのもの」ではなく、中身を具体的に書いたラベルを貼り、開ける日をカレンダーに実際に書き込む。箱を閉じる瞬間に中身の写真を一枚撮っておく、あるいは中に何が入っているか声に出して言っておく――これはまさにそのためにちょうどいい。そうすれば、その箱は「なんとなく信じて保管しているもの」ではなく、「自分が何を持っているか把握しているもの」として家に届く。それが、いつか本当に開ける箱と、片づけたかった部屋の縮小版として次の世代まで放置される箱との違いになる。
片づけ終わったとき、それはどんな姿か
空っぽの部屋でもなければ、箱をいっぱいに積んだ車で走り去っただけで何も解決していない、という状態でもない。たいていは、本当に残すと決めたごく少数のモノと、それ以外の写真が携帯の中に収まっていて、そしてあの家、あの窓、そこに住んでいたころの家族という「場所そのもの」への寂しさが、モノを持ち続けなければならないという義務感からきれいに切り離されている状態だ。部屋を懐かしく思うことと、中にあったモノを持ち続けなければならないことは、そもそも同じではない。この二つが早く分かれるほど、その週末は実際に楽になる。